BLOG & INFO

ブログ

父の病がきっかけで始まった、いぐさ農家の新たな挑戦


母からの一本の電話

「お父さんがガンになったかもしれん…」

母からのその電話が、私の人生を大きく変えるきっかけとなりました。

母からの電話

愛知県でWeb事業を展開していた私は、突然の知らせに衝撃を受けました。

両親は熊本県八代市でいぐさ農家を営んでおり、私はその次男として生まれ育ちましたが、地元を離れて長く経っていました。

父は真夜中に激しい腹痛に襲われ、緊急搬送されました。検査の結果、すい臓に腫瘍が見つかり、手術を受けることになったのです。
腫瘍が良性か悪性かは、摘出して検査するまで分からないという状況に、家族全員が不安に包まれました。
検査結果が出るまでの1週間、父はかなり弱気になっていましたし、私も愛知にいながら気が気ではありませんでした。

手術は成功しましたが、その間に私は、父の不在が家族や家業に与える影響について深く考えるようになりました。そして、この出来事が、私がいぐさインテリア事業を始めるきっかけとなったのです。


父の病気と家庭の危機

父の手術は無事に終わりましたが、検査結果が出るまでの1週間、家族全員がその結果に一喜一憂する日々を過ごしました。

手術後の父はかなり弱気になり、元気を失っているように見えました。テレビ電話で顔を合わせたとき、画面に映る父の姿は、以前の父とは別人のようでした。
痩せ細り、無精髭を生やし、声もかすかにしか出せない父の姿に、私は胸が締め付けられる思いでした。

これまで家族を支えてきた父が、こんなにも弱ってしまう姿を目の当たりにし、私は大きなショックを受けました。

幸運にも腫瘍は良性で、私たちは胸を撫で下ろしました。医師から「すい臓は沈黙の臓器と呼ばれ、今回の発見は奇跡的だ」と告げられ、家族全員がその言葉の重さを実感しました。


農家の現状といぐさの未来

私の家族は、熊本県八代市で代々いぐさ農家を営んできました。父は長年、いぐさの生産を主導しており、その知識と経験は他の誰にも負けないものでした。

しかし、いぐさ産業全体が年々衰退しているという厳しい現実も直面していました。日本の生活様式が西洋化し、畳の需要の減少、海外産の畳の輸入が増加する中で、多くのいぐさ農家が廃業に追い込まれていきました。
それでも、父は揺るぎない信念を持ち、いぐさの生産を続けてきたのです。しかし、父の病気が発覚したことで、両親の経営にも暗雲が立ち込めました。
父がいなければ、いぐさの生産を続けることは困難です。母から「お父さんがいなくなったら、どうしようもなくなる」という言葉を聞いたとき、私は両親が今まで頑張って続けてきたいぐさ農家としての未来に深い不安を覚えました。

愛知に住む私にとって、熊本の農作業は遠い現実のように感じられていましたが、父の健康が脅かされた今、家族を助けるために何ができるのか、真剣に考えるようになりました。


家族の決断と新たな挑戦

父の手術後、まだ回復の見通しも立たない中、い草の収穫時期が刻々と迫ってきました。母から「お父さんがこんな状況だから、収穫を手伝いに来てくれん?」という電話を受けたとき、私は心が大きく揺さぶられました。

愛知には自分の家族がいて、Web事業も忙しさを増している状況でした。

しかし、妻の「こっちは何とかするから帰って手伝ってあげて。今帰らんかったら後悔するよ。」という言葉に背中を押され、その言葉に深く感謝しつつ、熊本へと帰る決意を固めました。


い草収穫作業のため、熊本へ

熊本での収穫作業は約1ヶ月間に及ぶものでした。

妻の理解と支えのおかげで、私は故郷へ向かうことができました。

私自身の仕事もリモートワークで対応できる状況だったため、午前中は収穫作業、午後は自分の仕事に専念できるだろうと考えていました。

しかし、熊本に到着して実際に作業に取り掛かると、その甘さに気づかされることとなったのです。

続く…。

この記事の著者

村田 悟寿

1983年3月16日、熊本県八代市のい草生産農家の次男として生まれ、い草農業に育まれる。工業高校卒業後、愛知県の製造業に就職。勤務しながら同時にWeb制作スキルを独学で磨き、Webコンサルタントとして独立。父の病気をきっかけに実家のい草農業を手伝うことで、い草農家の現状を知る。新たなビジョンとしてい草の認知、販路拡大に挑戦しています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

プライバシーポリシー / 特定商取引法に基づく表記

Copyright © 2024 村田農産 All rights Reserved.